行徳・南行徳エリア
行徳界隈寺社巡り①
市川市湊~本行徳界隈
行徳エリアの歴史を偲ぶ寺社巡り
市川市行徳は、昔、「行徳千軒寺百軒」と呼ばれていたほどお寺の多い場所だったそうです。江戸時代には江戸から船に乗って行徳の船着き場まで行き、そこから成田山新勝寺へと参拝に向かう人々が多くいたそうで、行徳の船着き場で降りた人々が一休みする場所として賑わったのだとか。現在もお寺だけでなく神社も多く残っています。今回は東京メトロ東西線行徳駅から歩いて、点在する寺社仏閣を巡りました。
始めに立ち寄ったのが「弁天公園」です。江戸時代初期ごろまで弁財天を祭るお宮があったそうですが、今は公園として整備されています。その先の行徳バイバスを渡って進むと行徳街道から本堂まで敷石で繋がった「善照寺」がありました。山門前の木札によると、「寛永2年(1625)覚誉潮随上人によって開かれた。地元名士である青山四郎兵衛正貞が父の菩提を弔うために資金を提供して建立した。東京芝増上寺の末寺であり。寺号「善照寺」は増上寺第十四世桑誉了的大僧正より、山号は青山家の姓にちなんで、「青暘山」を増上寺第二十三世遵誉貴屋大僧正より賜った」との記述が。境内入口に並ぶ『五智如来』は、善照寺の大檀那である青山氏が先祖代々諸霊の供養のために万治元年(1658年)に建立したもの」と記載されています。
善照寺を出て、南行徳方面へ約350m歩くと「香取神社」があります。境内の掲示板によると、「千葉県香取市にある下総国一宮香取神宮を勧請した社であり祭神は、経津主命、推定六百余年前に建立された。江戸時代から、欠真間・香取・湊新田・湊を合わせた、四ヵ村の鎮守様として崇められている神社である」とのこと。
香取神社の約70m先にあるのが「圓明院(えんめいいん)」です。ホームページによると、「當山は山号を「水秦山」寺号を「圓明院」とし、室町時代の永禄3年(1560年)真言宗僧侶覺嚴和尚により開山されました。本尊は阿弥陀如来坐像。本堂内には、不動明王・十一面観世音菩薩・地蔵菩薩をお祀りしている」そうです。
寺社の他にも行徳の歴史を偲ぶ史蹟が至る所に残る
圓明院を後にして歩みを進めると銅像を発見!これは、地下鉄東西線の早期誘致と駅の開設および地域の発展の礎を築いた“田中幸之助”氏を讃え建立された銅像でした。田中翁は残念ながら東西線の開通直前に他界されたそうです。併設されている稲荷様の横には、富貴と長寿を願う“ぽっくり蛙”も祭られてありました。
次に向かったのは「豊受神社」。境内の案内板によると、「御祭神は豊受大神(イザナギノミコトの孫(伊勢神宮の外宮))」とのこと。ここは、行徳の地名と行徳千軒寺百軒という町の起こりを伝える行徳で一番由緒ある神社なのだとか。3年に一度10月に行われる「行徳五ヶ町の大祭」は、大小の神輿の渡御が行徳独特の揉み方が見ごたえのあるお祭りだそうです。今はひっそりと佇む本堂の裏手には2台のブランコがありました。
その周辺には、安政元年(1854年)に建てられた行徳名物だったという、うどん屋「笹屋うどん」の店が残っています。また、その先に、国登録有形文化財である「加藤家住宅主屋・煉瓦塀」もありました。近くには「神明神社」の木札が。それによるとここは、「4丁目の豊受神社の鎮守として建立されたもの」だそうで、「行徳五ヶ町の大祭のときに神輿が渡卸して留まる所」なのだとか。
細い脇道を進むと「本久寺」がありました。木札によると「照徳山本久寺は中山法華経寺の末寺で、戦国時代(室町時代末期)の元亀3年(1572年)本乗院日能上人によって御開山されたお寺」なのだとか。「本堂に安置されているのは、祖師像(日蓮聖人の木像)。古くから眼病守護日蓮大菩薩として言い伝えられている」そうです。
その後、妙典駅方面へと進むと江戸時代に広く信仰されていたという「馬頭観世音」がありました。観音菩薩の変化身のひとつであり、いわゆる「六観音」の一尊にも数えられ、畜生道に迷う人々を救済するのだとか。木札によると「観音様のうちただ一人、目を吊り上げ、カッと目を見開き、世にも恐ろしい忿怒(ふんぬ)の相をしています」と、記載されていました。
今回は、行徳駅から歩いて寺社や建造物など10ヵ所を巡りました。木札を読んで初めて知ることができた行徳の歴史もありました。木札を読みながらゆっくり歩いて1時間30分程度です。寺社仏閣はまだまだたくさんあるので、また、散策してみたいと思います。